Kumagai Morikazu: The Joy Of Life  The National Museum Of Modern Art. Tokyo

没後40年 熊谷守一 生きるよろこび

東京近代美術館 2017年12月1日(金)〜2018年3月21日(水・祝)

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特別対談 仙人と呼ばれた男、その独自の生き方

日本経済新聞の「私の履歴書」に熊谷守一が登場した昭和46年、文化部記者として取材をおこなった田村祥蔵さんに、美術史家・山下裕二さんが話を聞きました。

山下日経新聞連載「私の履歴書」に熊谷守一が登場したのは、どういった経緯からなのでしょうか。当時は政財界の大物がほとんどでしたので、極めて異色な人選ですよね。

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田村私は文化部の記者だったので、熊谷さんの存在はもともと知っていて、仙人のようだという逸話をたくさん耳にしていました。作品だけでなく、生き方そのものが極めてオリジナリティにあふれているでしょ。一体どういう人だろうと。冒険かもしれないが出てもらおうじゃないかと提案をしたのがはじまりです。それと、日経の経営方針の一つとして経済だけでなく文化も充実させようと、美術に非常に力を入れた。そういう背景があって幸いにも実現したのです。

山下なるほど。著書には「早春から初夏にかけて足しげく通った」と書かれておられますが、何回くらい取材されたのでしょう。

田村約30日くらいじゃないかと思います。ある時は毎日のように行った記憶があります。

山下田村さんと速記者の方、お二人だけで行かれたとか。守一は速記を面白がっていたという話を書かれていますね。

田村速記者が一生懸命書いているところを見ているのです。でも、元々ポツリポツリの話だから、話が途切れて速記者の手が止まる。すると、「もっと書け」とね。

山下でも、話さなきゃ書けませんものね。

田村そうそう(笑)。僕がそう言うと「あ、そうか」と、また話がはじまるんです。

山下守一はどんな喋り方なのだろうと長年思っていたのですが、なんとYouTubeに守一が喋っている画像がアップされているのを最近知りまして。守一は訥々とした感じで、奥さんがよく横から話すんですよね。

田村奥さんに話を繋いでもらわないと原稿になりませんでした。熊谷さんが非常にいいことを言っても、前後のつながりは無視して話すでしょ。それで私が意味がわからずキョトンとしていると、すかさず奥さんが補足してくれるんです。岐阜弁も抜けてなくてねぇ。「〜ですわ」って。
しかし、今思い出してもよく話してくださったと思います。取材を嫌がる素振りも見せなかったなぁ。

山下「私の履歴書」を本にした「へたも絵のうち」という一冊が残っていることによって、守一の後世への伝わり方は、天と地ほど違っていると思います。

田村私でなくとも、誰かがやっていたかもしれません。

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山下それから40何年経って田村さんは新たに「仙人と呼ばれた男」を書かれたわけですが、いろいろと知らなかったことが書いてありました。特に「えっ」と思ったのは文化勲章の件ですね。辞退されたということは知っていたのですが、この本の中ではものすごく激怒したという風に…。

田村それは秀子夫人から聞いたのです。「人が人に勲章をやるなんて」と怒ったと。本音だと思います。袴をはいて授与式に出るなんて一番嫌いな人だったから。

山下でも、文化勲章内定を知らせる使者が来た時に会ってはいるんですよね。「文化勲章は結構ですけど、これだけはいただいておきます」と、お土産に持っていったトランジスタラジオはもらったという逸話を何か別の本で読んだことがあります。

田村あ、ほんと(笑)。周りもずいぶん勧めたそうですがね。熊谷さんは最後、「母ちゃん(※秀子夫人のこと)がもらった方がいいと思うんなら、もらってもいいよ」と言ったそうですよ。ところが、夫人は「本人があれほど嫌がってるのに、もらうことないと思いました」と言ったんです。これは「私の履歴書」の後に直接聞いたのかな。

山下「私の履歴書」の後もお会いになってる?

田村そんなに会っていません。ただ、単行本になった時にサインだけもらいに行きました。

山下古書価格は100倍以上ですね(笑)。
それと、もう一つおうかがいしたいのですが、守一の黒田清輝に対する屈折した感情というのは何なのでしょうか。黒田に対して「あれは絵じゃないわ」とまで言っている。黒田だけじゃなく、黒田の師、ラファエル・コランのことまで「まるっきりつまらない絵描きだよ」なんて言ってるし。

田村あの頃、文展で賞を取るのは綺麗な絵ばかりでつくづく嫌になってしまったのではないでしょうか。

山下守一が心を寄せていたのは青木繁であり、長谷川利行であり…。破滅型の画家なのですよね。

田村熊谷さん自身は人によく思われようなんて、少しも思っていなくて、人の思惑なんて完全に無視した絵ですよね。

山下自分の絵の行く末にも、まったく関心がないですし。

田村おっしゃる通り。第一、絵を売ろうとは長い間思ってなかったんだからね。

image《朝の日輪》1955年 油彩・板 24.0×33.3cm 愛知県美術館 木村定三コレクション

山下僕は、守一の晩年の作品は意味がないからいいと思うのです。《朝の日輪》をはじめ、最後は本当に全部意味がなくなっていって、自然や命だけになった。そういうありようがすごく好きなんです。
「へたも絵のうち」の解説の赤瀬川原平さんの文章もいいですよね。「見かけはごく地味なふつうの人で、その中味も、もっとふつうの人なのかもしれない。でもそのふつうというのが、稀有な、いまこの世にあり得ないほどのふつうなのだ。」という。赤瀬川さん、こういう境地に憧れていたところがあると思います。

田村熊谷さんを好きな人は、結局そういうことですよね。自分ではこんな生き方、絶対にできないですから。

山下赤瀬川さんも晩年は石ころを見て面白がれる境地に近づいていたと思います。守一の境地に憧れる人は、実業の世界にも結構いますよね。

田村人間なら誰でも欲とか名声とかには恬淡として、自分の生きたいように生きたいと、心の片隅では思っているのだけど、なかなかそうはいかない。しかし、この人は見事にやっている。その代わり、貧困や家族の死などでしっぺ返しもうけていますが。それでも、ある意味ビクともしないというか、絵を描く以外できない。つまり天才ですよね。僕はちょっと江戸時代の僧侶、良寛とも似ているところがあると思うのです。

山下ありますね。ただ面白いのは守一自身は良寛のことを「私は気に入りません」と言っているんですね(笑)。でも、それは逆に言えば、良寛の本質をわかっていたのかもしれないと思います。

田村「書を見てあんまり立派なので、おかしな気分になりました」と、そういう言い方をしています。あまり好きではないのでしょうね。良寛はものすごい能書家ですから。

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山下そうなんですよ。だから、自分とは違うということを言いたかったのではないかと思います。

田村あと、天才としての生き方がどこか似ているなぁと思うのは、李白ですね。

山下中国の文人の脱俗した生き方は理想ですね。ただ、それがある種の文人としての型になっていたような気もします。守一は精神的にそれよりも高みにいたのではないでしょうか。
李白で思い出しましたが、李白の像を描いてる梁楷(りょうかい)という中国の南宋時代の画家がいるのですが、絵が天才的にうまい。ほかのどの人の絵とも違っていて、守一と共通するものを感じます。皇帝から賜った金帯をどこかに置きっぱなしにしていたという逸話も残っていたり。

田村確かに、ちょっと似ているかもしれませんね。梁楷が描いた《雪景山水図》を見るとそう思います。
日本に熊谷守一のような稀有な人がいたことは本当に語り継がれていってほしいです。

山下裕二

美術史家、明治学院大学教授
1958年広島県生まれ。美術史家、明治学院大学文学部芸術学科教授。室町時代の水墨画の研究を起点に、縄文から現代美術まで、日本美術史全般にわたる幅広い研究を手がける。著書に『室町絵画の残像』『日本美術の二〇世紀』など。

田村祥蔵

元 日本経済新聞社編集局文化部長
1937年新潟県生まれ。日本経済新聞社に入社。社会部、文化部記者、文化部長、論説副主幹、出版局長、取締役事業局長などを歴任。その後、日経映像社長。女子美術大学監事、清春芸術村理事などで活躍。著書に『仙人と呼ばれた男 画家・熊谷守一の生涯』など。